現世と相容れないこと 長文 少し怒りもやもや

だいたい宗教書に書いてあることっていうのは、小学校の道徳の授業で習うようなことで。

(こういうふうに言うと、うちの宗教はほかとは違うって主張する信者もいるだろうだけど、宗教書自体を哲学とか自己啓発とか一つのジャンルとして大まかに捉えた場合。)

人が嫌がることをしないとか。
周囲の人のためになることをしようとか。
明るい社会をとか。
周囲の人に優しい気持ちを持って接しましょうとか。

それで、ここからは道徳の授業と違うところになる。

こういうことを話すと変な人だと思う人も多いから、私は現実社会では自分からは話題に出さないけれど……

でも、本当は、そんなの存在しないって言い張るタイプの人の方が、一度ぐらいは耳にしたり、本を読んでおいた方がいいと思うんだよね。でも、それも個人の自由だから。現実社会では人に薦めることもしていないけど……。

そんな気持ちを持って生涯を過ごしていたら、徳を積むことになり、死後の世界では天国へ進むことができるでしょう。逆にもしも、陰気な気持ちを持っていたり、悪いことをして生涯を過ごしていたら死後地獄に落ちるでしょうっていう。

それは多分、おおむね正解なんだろう。

なんかね。あの世って、区分けされているみたいだから。
自分のいくつかの体験と、書物から判断するに。
向こうの世界では、心の持ち方とか心の美しさのレベルが違うと、同じ空間に存在できないようになっているみたい。

また、少しでも心が曇るとその気持ちに合った場所に落ちてしまうそう。逆に、気持ちが磨かれた場合は、さらに高い場所に上がるそう。


現実世界では、心の醜い人も普通な人も心の美しい人も考え方の持ち方が違う人も雑多に同じ空間に存在しているから、そこが大きな違いの一つで。

10代の思春期に宗教書を読んだか、ある程度人生経験を積んで、30代40代になってから宗教書を読んだかでまた捉え方も変わってくるみたい。
 
  10代で宗教書を読むパターンっていうのは、親がその宗教に入っていて、家に本が置いてあったからっていう場合。その場合はその宗教の本しか読まない。

それから、未知のことや不思議なことに興味がある読者家の人がたくさんの本を読む一貫として触れるケースもあるようです。

30代40代の大人になってから宗教書に触れるのは、(姑にいじめられたりして)なにか辛いことがあって、勧誘されたり、書店で宗教書を読んで、心の安定を求めてその宗教に入るみたい。

新興宗教を嫌う人達にはうさんくさく見えても、その人にはその宗教が必要だったんだろうな……。

10代のころに宗教書に触れた人って、宗教書に書いてある言葉をそのままに受け取ってしまう傾向もあるみたい。よく言えば、生真面目で読解力が強い。

で、大人になってから宗教書を読んだ人(親)って、自分が都合がいいように解釈しているように見えた。10代のころの私には。

お祈りしている時と普段の行動と言動との矛盾。
勝ち負けで考えている部分もあるみたいって。(でも、結局新興宗教ってどこもヒエラルキー社会だったみたい。大きな組織をつくって教祖様になる人っていうのは初代ワンマン社長タイプが多いんだろう。)

いや、この本を書いた人が言わんとしていることは、こうこうだよ、なんて思ったり。
 
人間として生きる部分が、当時の私には宗教書との矛盾に見えていたみたい。
人生経験の長い人っていうのは、経験的に宗教の指導の生き方だけではまずいって知っていたから、あと、宗教に出会う前の人生があるから、人として生きるやり方や考え方がすでに身に着いていたからっていうこともあるんだろう。

それに、宗教書を書いた人も、本には神のような清らかな心と行動を持ち続けることが大事と説いているけれど、(それで死後に天国に行けるとしても)実際には、それだけじゃあ人として現世ではやっていけなかったと思う。

利用してやろうっていう人達が出てくるから。

これは、心理学系の本を読んだ方がわかることなのかも。

親切な心でやってあげて。最初は感謝してくれる。でも、二度目からは、やってあげないと不満が出てきたり。当たり前になってしまったり。
あげくのはてに、私さえ大変でもそれで丸く収まるならと、大変な部分ばかり引き受けてあげていたら、逆に私がやるから大変なんだっていうふうに言われるようになったり(現実には当時の私がやった仕事を引き受けたいと思う人なんてほかにだれもいなかった。)。それでもまじめに続ければいつか認められると信じて何年も続けていたら、どんなに嫌なことをしても反撃しない、辞めないと思ってどんどんエスカレートしていったり。(しかも、その次々人がやめてしまう部門では、努力家型で熱意がありそうなまじめそうな若い子しか雇っていなかった。求人募集をかければ補充がいくらでも利くからだろう。)あんな職場だから人が次々辞めていくのよ……。(転職してみたら、転職先の方が人間関係も労働条件もお給料もよかった。)あの職場でまじめで仕事ができた人で私のほかにも病気になって働けなくなった人がほかにもいるらしい。あの職場は今まで何十人の若者を潰しているんだ……。全ての求人情報には年間離職率の表示を義務づける法律をつくってほしいものです。
 
そんなこともあるから。
たしかに、あの世の論理としてはそうなんだけど。

現実世界に生きる場合に、周囲の人のためを思って行動する人々を作り出す宗教って洗脳には便利なこともあるし。

やっぱり目には目をっていう、優しさには優しさをっていう考え方って、同じことをされた方がどんなことだったかってわかることもあるし。

離れて初めて、反省してくれる場合もあるし。(変わらない場合もあるけれど…。)

やられてもやりかえさない、優しさを返せっていう考え方だと、人間関係が悪化していく場合もあるのよ。
(あの世の場合は、気持ちと考え方の違う人達とは会うことはないけれど。)

その宗教の信者だからといって、必ずしも大元の宗教の教理に則した生き方をしているわけじゃない。

キリスト教とアフリカ大陸やアメリカ大陸の植民地化、奴隷制度を見ていたらそう思う。

秀吉がキリスト教を禁止したのも、賢明だったなあって思う。

私は霊界の知識は持っているけれど、今はもう、宗教書に則した生き方をする気持ちになれない……。

人間として生きないと、多様な人が行き交う現実世界では生きづらくなる。