注:ぐち毒ふくむ  

どちらかというと、コミュニケーションを求めているから。

 

私は、どうも、父親がやっていることって子供のころから興味が持てなかった。

今は、あまり毛嫌いするのもどうかと思って、反抗期のころみたいな対応はしなくなったけれど…。

ある程度の距離を保ちながら、友好的に接するという。

 

父は、気分屋だからかな。

子供のころは、今よりも、父のことが嫌いだったし。

家にいる時は基本的にお酒飲んでいて、しかも酒癖悪いし。

だって、いきなり嫌なことを言ってきたりするし。

ある時はプラスのことでも、急にマイナスに受け取られたりするから。

そういう、嫌だなって思うタイプの人とは、なるべく離れたいと思うものだ…。

 

同世代の人(同性)、立場や境遇が似ている人がやっていることや考え方だと興味を持ちやすいということもあるし。それが自然なことでもあるし。同じ境遇の人達がやっていて、成功したり、よい方向にいったことって、実際に参考になるものだし…。共通認識や共通体験になりやすいもの…。

 

それから、清潔感のない人のやっていることや、持ち物を避ける気持ちができるのは(ある程度の年齢になったら顔には出さないようにしても。)、生物としての自己防衛本能もあると思う。清潔感の無い人って衛生観念が低いことが多いから…。

 

尊敬している人だったり、一緒にいて心地よいなと思う人、素敵だなとかかっこいいと思える人がやることに対しては興味は持てるけれど、その逆の人の場合は、興味が薄れるという。それは、親に対してもそうだっていうことで…。

 

例えば、車だったり、野球だったり、旅行だったり。

 

「うちの子って車欲しがらないのよ。」「うちの子って旅行へ行っても楽しそうじゃないのよ。」って母が言っていたこともあったなあ。

 

でも、1人暮らししていた時期に、いろいろな人と接するようにしたら。

友好的なタイプの同世代の人だったり、職場の人達が、車やスポーツが好きな人が多かったから。

その時期は、いいなって思うようになった。

 

しかし、その後また実家に戻ったら、またどんどん興味が薄れていくという…。

まっこうから否定したら、父がかわいそうだから。

人としての魅力にもかかわる話になってくるから…。

だからなにもいわないけれど。

そんな感性…。


 

逆に、私のやることなすこと否定的に見てくる人もいて(例・子供のころの姉の私に対する対応)。

姉がいる時に、家の中に活気があると思ったこともあったけれど。私に対しては理不尽なことを言ってくることはよくあったから。(年が近いと、妹ってそういうポジションになりやすいのかもしれない…。)限度を超えて、私が怒ると、けんかになるというパターンだったな。子供のころは…。でも、私が怒った部分だけを見て、母は姉の肩を持つという…。(母はふだん、姉とばかりしゃべっていたからな…。)

結局、なにをやっても、だめだったし。結果を出したとしても、なんか上から目線だったし。(ほめてはくれるけれど、どこかひっかかる気持ちになるという。)ずっと私の好きなことに対してはばかにしていたのに、姉の友人が認めてくれたりしたことだと、急に認められたりもしたし。

数少ない、認められたなっていうことって中高生向けファッション雑誌と、そのころはやっていた漫画かな。(根強い人気があってもおもしろくてもややマイナーだと認められなくて、同世代の間で大ヒットしたものだと認められる感じがした。)姉はそのころは雑誌を買っていなかったみたいだけど、私は定期購読していたことがあって、同世代の女の子だと参考にしたいなって思う時もあるものだから…。

 

ふだんバカにしてくるくせに、子供のころは、私が持っている物で姉が欲しいと思うものがあると、理由をつけて取ろうとするか、そんな時ばかりかわいらしくおねだりしてきたこともあったし。(同性で同世代だと欲しいと思う物が被りやすい。)「これは○○からもらったものだから。」と言って断ったら、嫌味を言われたこともあるし。あげたらあげたで、大事にしてくれたらまだいいけれど、すぐに飽きたりするし。

 

私の持っている本は勝手に読んだりするのに。それで、読むだけならまだしも、批判的なことも言ってくることもあるし。逆のことは、できなかったなあ。(ちなみに、当時、姉がそんな対応をするのは私に対してだけで、よその人からは優しい人で、むしろあんな人がお姉さんだったらいいなと思われている。身内には厳しいのに。)

  

そんな人のやることに関しては、私も認めない。それか、必要最小限の礼儀だけ保てるようにして、あとは、最小限しかつきあわないようにして、距離をおくことにする。

認めてくれる人に対しては、どこかいいところを探して認める。

だいぶ遠回りしたけれど、結局そんな結論になっています…。

 

今は、大人になってからは、一緒に暮らしていないし、距離があるから、そんなこともなくなったけれど。近くになったら、また同じようなことが起こる気がするから…。子供のころは、接触が近くなるたびにそうだったから…。あまり距離があるのもどうかなって思って、離れていると関係がよくなるから、それでうまくいけそうかなと思って、そんな時は向こうが友好的に提案してくるから、その提案に乗って距離を縮めると、必ずそのうち嫌な思いをし始める…。部屋が同じだったのが一番よくなかったな。部屋はほかにもあって、狭かったけれど自分の部屋を持っていたのに、10代のころに姉が使っていた部屋を一人の部屋として使うには広すぎるからって姉に言われて、姉妹で二人部屋として使うようになったんだけれど、その時プライバシーがなくなったから。あの時に私が自分の部屋が確保できていたら、また姉妹の関係は変わっていたと思う。(二人部屋になったことで自分ひとりの時間がなくなったこともあるし。常に姉から行動を見られている状態になってしまった。読んでいる本についてや、勉強したりしていることに対して、なんにも言われたくなかったな…。逆に、私は姉のことに対しては干渉なんてとても、なにもできなかった。親の目が届かないところで家庭内暴力や暴言が起こりやすくなった。もともとそんなに仲がいい、会話のある姉妹でもなかったしね…。子供のころあまりしゃべらなくても大人になってからふつうに話すようになったという兄弟もいるけれど、私の場合はどうしてもわだかまりがあるし、それに心の奥底では信用していないから、必要最小限の時間しか接触したくないと思っている。)

だから、あまり連絡は取っていない…。(個人的によく連絡を取り合うとか、一緒に遊びにいくといった仲がいい兄弟の話を聞くと、うらやましいと思うこともあるけれど…。)端から見たら少しよそよそしい関係なのかもしれないけれど、うちの場合は、兄弟とはいえ、たまにしか会わなくて、他人行儀なぐらいが一番うまくいく関係なんだと思う…。 

 


 

ある著述家が「仲のいい人同士、知り合い同士の関係性によって、決定権を持つ人達の行動が決まってくる。」と書いていたけれど、そのことに関しては、言われてみたらその通りだなあ。

 

決定権のあるようなえらい人も、関係性の深いコミュニティの人達に認めてもらいたいから、その社会のなかでの人間関係を重視して、その方向に動いていくという。

 

(「友人関係を見るとその人がどんな人なのかわかる。」って聞いたことがあるけれど、かの著述家は格差社会に対して肯定的な考え方の人だったんだなあ。お金持ちはお金を持っているとさらにお金を生み出すが、低所得者層へ社会保障をしてもお金が消費されるだけだと否定的な感じの文章だった。そもそもお金ってなんのためにあるのでしょう。お金の量が増えたって、世の中全体に出回っている資源や品物やサービスの量が同じだったら、利益の配分が変わるだけじゃん。

世の中には、病気になったり、年を取って働けなくなった人も多いのに。弱者の視点には立たない文筆家だったんだなあ…。私は、努力した人が報われるような格差はあってもいいと思うけれど、行き過ぎた格差社会は問題だと思う方。治安も悪くなるし、現代のアメリカ社会のような格差社会には憧れない。(現代アメリカは富裕層の税金割合がだんだん軽くなってきていて、数十年前よりも格差が拡大されているらしいです…。アメリカ大統領が選挙の時にに格差解消を望んでいたとしても、背後のなにかの力によって、格差減少の方向に法律をつくれない環境があるみたい。)

多ければ多いほどいいっていうような考え方よりも、最初に全体の必要経費の割合を決めて、その範囲内で予算を振り分けていくというような考え方の方が、健全な社会になりやすいと思う。もしもお金持ちの税金を無くして、よりたくさんのお金を生み出したとしても、知り合い同士の関係性によって満足度が決まってくるんだから、多くなったら多くなっただけ、より多く欲しくなるお金持ちが現れるだけだと思う。)

 

 でも、だんだん友達を取捨選択して(されて)いって、同じような立場や考え方の人達と親しくなるものなのだと思う…。

 

決定権を持つ人達の中でも、なにかに疑問を持つようになったりすると、意識が高い人達同士の集まりをつくるようになって、その集まりには違う種類の考え方の人達が入ってこないようにされているものなのだと推測されます。


 

いろいろとアイデアはあるけど、行動力がないのって。

でも、アイデアをだれかが利用してくれたらいいかなっていう気持ちもあって、ブログに書いているという。

 

でも、ブログで幅広く公表しているのに、参考にされたらされたで、自分の考え方や美意識が広まってよかったなと思う気持ちと同時に、自分のもの(アイデア)だったのにな、ともどこか思うという…。なんでも、人前で公表したと同時に、だれかに影響を与えるものではあるんだけれどね。(私自身もいろいろな人から影響は受けているし…。)


結局、なにをやっても同じだとわかったから。

やりたいのにやらないんじゃなくて、やりたくないからやらないの。


結果が見えているから。


周囲の人や環境が変わったら、やる気になるかもしれないけれど。

身近な人が入ってくる時点で同じ。

 

結局、安定した経済力が無ければ、離れられないから。

だから、やるか、やらないかの決め手は、やることによって自立できるだけの長期間の安定した収入が得られるかどうかになるかな、やっぱり。

やっても、ただ、名誉になるかどうかとか、多少の短期間のお小遣い程度だったら、それで周囲に知られて、やっかまれたり、カードにされたりしてめんどうなことになるんだったら、やらなくていいかな…っていう。(それでも、いままでの経験から、必ず嫌なことを言われるとわかっているタイプの人に全く知られずにやることができるのだったら、やってもいいかも。)

 

うまくいった場合は周囲の人のおかげで、悪くなった場合は私のせいのように言われるのなら。もう、ありきたりの、決められたことしかやりたくなくなる。

 

なんだろ。一時的にほめてくれることはあっても、長く話していると、なんか嫌な気持ちになるんだよね…。なんか下に見ながらほめられているような。それで、最終的には、だんだん自分の手柄みたいになったり。

(それから、割と友好的な場合もあるんだけれど、なんとなくマウンティングが入ることもあるような関係性の場合。それほど仲も悪くないけど、それほどよくもない場合は、まだやっていたの、とかもう流行っていないよとか言われちゃったこともあるし。その人の場合は、普通に話せる話題があることもあったんだけれど。話題に出しやすいことと出しにくいこととあるんだろうな。無難な話題しかしなくて、友好的に接するのが一番なのかもしれない…。)

あと、それほど仲のよくない人の場合は、私が成果を出したら、くやしそうに憎憎しげにするだけだったりするし。あるいは、急に、他の身内の人のことを話し出したりしたし。それとか、なぜか急にその結果が出たのは自分のおかげだというふうに話を持って行ったりしたし。(私はどちらかというと、その人に耐えながら長年努力していたんだけれど…。)結局は、なにをやってもそんなのだったら、なにも一緒にやらなくていいやって。なにかを努力するのだったら、その人と完全に離れた上でやって、なにか成果が出たり、いいことがあったとしてもその人にはなにも話をしない方がいい。そんな結論になった。離れるのが一番よかったんだろうな。


そういう場合は、そのタイプの周りの人にわからないようにやっていたらいいのかな。でも、話が大きくなってきて、周囲の人が入ってくると同じことになるから。認められるんじゃないかって思って孤独に耐えてがんばったことでも、別の人に指示を受けて身に着けたことでも、今まで何度もそうだったから。だから、そのことが自分にとっての価値をもたせるためには、ずっとわからないように、あまり話をしないようにするしかなかったんだろうな。ほんとうは、一緒に楽しめたらよかったんだけれど。でも、その人(達)が入ってくる時点で、空気感が変わって、別のものになるから。


なにをやってもよく言ってくれる人もいれば。
なにをやっても悪く言う人もいるし。


嫌な人とはあまり深く接触したくないから。必要最小限のことだけ、短時間だったら、なんとか一緒にできるから。(ただ、一緒にいるといやな気持ちになる人ほど、なんとかこっちが気持ちを穏やかにしていると、濃い接触を求めてくるんだよね…。だから、少なくとも、その人と一緒にいる時は、一緒にいてつまらない人間でいる方が、自分の身が守れるの。離れられる立場にいる人はみんな、離れていって、寂しいから。でも、それでも、家族や近い親戚等、離れられない立場の場合は、ある程度はしかたないんだろうな…。)

 

身近な人の人間関係がそうだったら。