認められる(少しネガティブです)

人から評価されたり、仲良くなったりするためには、

・おしゃれさ・かっこよさ

・お金

・性格の優しさ・コミュニケーション能力の高さ・人脈・なんか機嫌よさそう・楽しそう

が必要なんだろう…。みんな、表立っては言わないものだけれど。

目立たないように、広い世代に好感度が高い感じをめざしたらよかったのかな、とも思う。

 

あの時は、異性の気を引きたいからおしゃれするっていうのではなくて、同世代の子に認められるためにおしゃれしていただけだったのに。

でも、少女向け、独身女性向けの雑誌に載っているような女の子らしい(女性らしい)ファッションを参考にすると、異性の気を引くことに繋がりやすいから…。家族から好きな人でもできたのかと思われたり、同級生から私服が派手(遊んでいそう)と思われたりすることがある…。なので目立ちたくない若い女の子の場合は、既婚女性向けのファッションの中で、着れそうな感じのものとか、少女向け、独身女性向けのものの中でも地味な感じのものを参考にするとよかったのかなと思う。

 

時代が違うから。世代が違うと、行動範囲も、会う人も違うから、理解してもらえないこともあったけれど…。時代が違うから、お年寄りにわかってもらえないのはしかたない部分もあるんだけれど。今は、世の中全体がハイカラになっているから。

 

昔の人って物が捨てられないから。だから、いらない物を断れない人に押し付ける傾向があるの…。個性的な洋服だと困る…。体型も違うし。世代違うし。ちなみに、スタイルのいい若い人が生地のしっかりした年配向けの服を着ると、年配の人の体型に見えます。同世代だと、もらった洋服を着ていても似合うことも多いんだけど。

少しだけ個性がある定番アイテムが好きなのは、それもある。シンプルなものだと主張が少ないから、組み合わせやすいし。

 

ファッションの雰囲気が似ている、同世代の人が好きなものだし。

雰囲気が似ている人とか、好きなものが共通する人って、ものの考え方とか、身についている常識とか、今まで目にしたものとか、周囲の環境が似ている率が高いし。

 

特に同世代同性の人からかっこいいとか、かわいいとか思われると、影響力が高くなるんだろうな…。

(権力を持っている人から評価されると、ずっと評価されなかった人が評価される場合もあるけれど…。)

 

(私は、変装レベルでファッションで雰囲気が変わることがあるので、そんなふうに思ったことがある。)

でも、自分がそんなにおしゃれじゃない人(そんなにファッションにあまり興味がなさそうな人)でも実はおしゃれな子(かわいい子、かっこいい人、ファッションセンスのある人)が好きなんだなあって思ったことはある。それだったら、嫌味にならない範囲で、努力したらよかったかなあ…とも思う。妥協の友人関係になっていたから。

 

地味なら地味なりのよさがあると思っていたんだけれど。

 

結局、センスのいい人の中でも、地味な人達の中でも、その中での競争があったりするし。ただ、競争のベクトルが違っていただけで。適度な距離感を持ちながらつきあえる関係が一番いい気がする…。

 

結局は、付き合いのある人は、類は友を呼ぶ法則になってくるものだし。 

一般的には、おしゃれな人は、なんらかのほかの条件が無い限り、ダサい人に積極的に関わりたくないものだけれどね。

 

ダサいと、人間関係が悪くなりやすくなったり、ばかにされやすくなるのよ…。

中学生のころ、いつも私のことをなんとなく下に見ていた幼馴染の同級生の女の子が、(私の方が学校の成績はずっとよかったけれど、ダサいと思われていたのと、行動範囲と交友関係が狭くて、コミュニケーション能力が低かったためだと思われる。)姉にもらった筆記用具を使っていた時は、かっこいいって言ってくれたことがあったし。当時、彼女から唯一ほめられたのってそれだけだったなあ…。美人でおしゃれな女の子だったけど、男の子にモテるタイプの子だったけれど、性格は、そんなによくないというか、厳しいところがあったようにと思う…。彼女から認められる条件の一つには、センスがあると思われないといけないということもあったんだろうなあ…。

 

ダサい人でもコミュ力が高かったり、性格がよかったり、財力のある場合は認められるけれど、そうでないと認められにくくなる。まあ、実家は財力があっても昔かたぎで質素な暮らしをしている…とか、いろいろなケースがあるからね…。一般的に、祖父母と同居の家の子と核家族の家の子で雰囲気が違うし。昔の人のものの考え方や行動に影響を受ける部分、遠慮する部分が出てくるから。(地方都市の農家でも、現代っ子は現代の感覚を持ってはいるけれど、地味目になる。)核家族の家の子の方が現代的で華やかでファッションセンスがいいもの。

地方都市の明治・大正生まれの農家のおじいちゃん、おばあちゃんの場合はしかたないんだけれど。少し前は江戸時代だし。でも、普段は質素で地味でも、若いころはハレの日は着物を着ていたみたい。感覚が現代と違うのよ…。

 

あと、身近にいる自分より条件のよい人とは同じように考えたくなる傾向があるけれど、自分より条件が悪い人とは同じように考えたくない傾向もあるみたい。

(例えば、自分より10歳年下の女性とは同じように思ったり、思いたい気持ちが出るけれど、自分より10歳年上の女性とは同じように思わない、思いたくないという…。) 


生命力の強さに引かれることもあるし。人気のある人なんかは、そうだよなあ。

それがある人って、好感度が高くなりやすいから。

でも、結局、世の中全体がたくさんの仲良しクラブ(人脈)でできているようなところもあったから。孤立していると、弱くなりやすいから。

理詰めで考えていくと、どう考えても、そのタイプの人がそうだったら、(私と似ているタイプの)別の人がそうなったってよかったはずなのにっていう部分があったのに。

だから、引きつけられつつも、釈然としない気持ちが出てくるのかなあ。

それでも、やっぱり、生命力と魅力があるからひきつけられるという。

といった、複雑な心情を持っている…。


 

新しいことに挑戦して、結果を出したとしても。おもしろくなってきたら、

 

身近な押し付けがましいタイプの人が入ってこないで、自分のこととして、自分が主体になってできているうちはおもしろかったりするけれど。

だいたい、影響力が出始めたり、多くの人から評価されはじめたり、楽しそうにやり始めると、本当に気に入ってやっていると、取っちゃう人が身近にいた場合。その人が主体になってやることになってしまうから。

 

もしも、そうなったら、それはそれとして別の意味合いのこととして続けておいて、それとはまた別の、自分が主体になってできるなにかを見つけたらよかったのかな…。

 

(そのくせに、なぜか、うまくいくとその人のおかげになるのに、失敗すると私のせいになったりもするし。気分でやめたりもするし。私がいやいややっていることに関してはあまり興味持たないのに。私が本当に気に入ってやっていたうちは、私のポジションを取ろうとしていたくせに、私が遠慮するようになって、やらなくなったら興味なくしたりするし。それならって思ってまたやりはじめたら、取ろうとするし。私に関係なく、ずっと大事にしていたらいいのにってある人に対して思ったこともある。)

(子供のころは、年上の兄弟とか、親とかがそういう存在になりやすい。人間関係もあるけれど、なんでもその人が入ってくると、その人が主体のこと、その人のものになるから。その人が主体のことになる部分があってもいいんだけれど、私がメインになってもいいはずのことでもその人が主体になるから。補佐的なことしかやらせてもらえないから。私とその人と一緒にやると、人間関係的なものもあって、必ず、すべてにおいてその人がメインのことになってしまうから。それだったら、なにをやっても同じようなものだなって思うから、新しいことに挑戦する気にもならなくなってくる。)

 

それだったら、最初からやらなくても同じだし、後処理とか、責任の所在とかいろいろ考えるとやらない方がいいかなって思ったりもする。それで、型どおりのことしかやらなくなってくる…。それでも、最低限の義務は果たせるし。だから、波風もまったく立たないけれど、つまらないのもあるんだろうな…。でも、私でも、言ってしまうとかわいそうだから、口には出さなくても、一緒になにかやりたい人とやりたくない人といるし。一緒になにかやりたくないタイプの人が入ってくるのがわかっているんだったら、最初からなにも新しいことはやらない方がいいやって思ったりもする。

 

それか、入ってこない範囲で、影響力が出ない範囲で続けようかなって思ったりもする。それだったら、ずっと自分のこととして続けられて、身近にいるあのタイプの人に取られないから。

その人が主体になることがあっても、みんなでやることがあってもいいけれど、すべてにおいてそうなると嫌だっていう…。